神明町で生まれ育ち、現在は地元町内会で会長を務める笹本宗和さん。埋め立てに伴う生活の変化、そして現在の地域についてお聞きしました。
□埋め立て以前の笹本さんの生活を教えて下さい。
当時は遊びと言ったらやっぱり海ですよ。学校から帰ってくるとランドセルぶん投げて、裸足のまますぐ海へ。だって国道のすぐ下の方が海だったからさ。貝を取ったり、釣りをやったり。あと、かくれんぼっていうのかな。あのね、「のりしべ」って言って、沖に竹を刺して、すのこみたいのに、のりを流して、天日干ししてのりを作っていたわけ。この「のりしべ」が、かくれんぼの場所になっていたわけ。のり屋さんには「壊すな!」ってよく怒られたんだけどね。だから冬は「のりしべ」ってのが遊び場になっていて、夏は遠浅になっていた海でいろいろ遊んだんだ。私たちの頃は海は仲間が集まるそんな場所になっていたから。
□こどもの頃の生活をお聞かせください。
昭和36年から埋め立てが始まったのかな。だから中学校くらいまでで、高校はもう海に行った記憶はないんだよね。埋め立てで海が遠のいたのと同時に、仲間っていうのもちょっとバラバラになってきたよね。一つの遊び場、たまり場がなくなってきたっていうのがあって。
やっぱりまちの行事も一時期衰退したと思うんだよね。埋め立てと同時に海での仕事がなくなってきて、のり屋さんも当然やめちゃうし、人口も減ったんじゃないですかね。潮干狩りだなんだって、一時賑やかな時期もあったけど、そういうのがなくなってきたから町も自然におとなしくなったって言うかね。当時の経済発展には寄与したんだけどね。なんていうかな、端的に言えばコミュニティの面では埋め立てが果たしてよかったのかなと今になっては首をかしげるけど。でも、あのまま埋め立てがなかったら、おそらくこういうまちってのはそれこそ過疎化してたんじゃないかとも思いますよ。
□現在の神明町は町内活動がとても活発で賑やかな地域ですが、何かきっかけがあったのですか?
特別なことをやってはないけども、やっぱり何代か先までの先輩方が地域の行事ってのを大事に守り続けてきて下さったから、地域があるんじゃねえかなと思う。辞めちゃうのは簡単なんだけども、それを戻すっていうのは容易じゃないんですよ。それとなんていうかな、年寄りばっかりじゃ何もできねえんだよね。近隣が開発されて若い人たちが入ってきてくれたってことで自治会が活性化してきたと思うんだよね。
でもね、新しい人が来たからすぐ入ってくれるってわけじゃないですよ。だからやっぱり子供会に力を入れてましたよね。子供が出てくると親御さんが出てきて、そんなきっかけで町会に入ってくれるってケースは結構ありますよね。そう考えるとまちが賑やかになったってのは子供が増えたってことが一番じゃないかね。
やっぱり1つの行事をやり続けることによって街の一体感ていうかね、そういう連帯感っていうのが出てくるんじゃねえかなって思う。
大切に守り、続けられてきた地域行事を通じて、海が身近であった頃の記憶が新たに地域へ入ってきた若い世代へ引き継がれていく。埋め立てで生活は変わったけれど、つながりを大切にする地域性は変わらないことが分かります。笹本さん、素敵なお話、ありがとうございました。