三木谷 健一さん

生まれた時から、寒川で暮らす三木谷健一さん。中央卸売市場の前身である市場(魚問屋)で働いていました。当時の寒川での暮らしやまちの様子をお聞きしました。

□当時の蘇我はどんな町でしたか。
蘇我は旧道、昔は木更津街道って言ったんですけど、それ一本しかなかったんですよね。木更津街道にそって民家なんかがずっと続いてて、でんぷん工場なんかもあったんですよね。そこを挟んで東側が住宅超えてすぐ田んぼとか畑だったんですよ。で、西側のすぐ下が海だったんですね。ですから蘇我の住民は半農半漁って言われるんですけど。冬場は海苔を養殖してそれを取って売っていた。春から秋にかけては農業。米や畑をやっていたと。海の方に行くと夏場ずっと遠浅になってて、夏はそこで貝を取ったり、売って、とそういう生活でした。

□寒川での生活の様子を教えて下さい。
今の言葉で言うと水産物中卸売業。それが昭和12年位、生まれてすぐ、船溜まりの脇に市場ができた。中央卸売り市場の前身。市が管轄してね、川鉄寄りに水産と千葉よりに青果があったんですよ。管理事務所が真ん中にあってね。だけど戦争になったでしょう。経済統制つってね営業は個々の店ではやれなくなって一つの会社をみんなが作って配給制だから。自由経済じゃねえだから。北海道からさ、スケソウダラだとかさ、いがらとかをさ船でもってきて3日くらいかかってさ、大きな船が船溜まりに入らないから停泊して近所の漁師さんの船をもっていって運んできて、それを配給してただよ。今だとね食べないらしいね。氷の設備はなし、あっても最低限度だから。ここに来るまでそしたらね真っ赤になって腐敗しちゃうわけ、腹わたが。食いもんはね無理してそれを調理して食わないといけないわけよ。そういう時代が昭和の21年くらいまでだね。

昭和20年になってそういう統制が解除になってそれでもまだ政治の形態はそれを引き継がれているから自由経済になれねぇんですよ。昭和20年はみんな闇の時代。闇市。潜って分からねぇように勝浦の方にかつおを買いに行ったりね、いろんなところに買いに行って、お金がある人んところへ行って問屋は買ってきたものを魚屋さんに内緒で売って、除外だから。配給品以外だから。闇だから普段の定価よりも、定価が決められているから政府で。かつおは一貫でいくらとかいかはいくらってから。だけど闇ルートだから経費はかかるし、値段もいいわけだよ。いくらかお金がある家じゃなきゃ買えないわけ。

それが昭和25年ぐれえになるっていったかな。なんとかね、世の中が落ち着いたね。日本の経済もね、少し力がついてきてね、それで昔みたいに各商店に戻って、この船溜まりの市場で商売してたわけですよ。昭和35年ぐれえかな、昔の問屋町のところにあるビル、ポートアリーナ。あそこへね、千葉市が中央卸売市場を作ったんですよ。(問屋町)水産と青果と作ったわけですよ。できたんだけども、青果は一年早く入ったけども水産は一年遅れて入ってなかなか統合がつかないんですよ。それで10何年やってたのかな。こんなこというとみなさんから語弊があるかもしれないけど、この間、7日の日おぐし~あったでしょう。その時友人と話をして彼がね、『おれが若ぇときよ、1月がよ一時化ちゃってよー、一日も漁にでれない時があった。』っていう話を聞いたけどもね。そういう時だから漁にでれねぇ時は金にならねぇだから。だから最低限の生活。変な話、家の中に金が一銭もなくなっちゃう。そうすると隣の家に借りに行って、米買う金とか。お米でも味噌でも、その朝に行って買ってきて、一日食べる量だけを朝、米を朝買いに行って、朝っていったって暗いうちだよ。そういう生活がね、昭和23年くらいまであったかな。

三木谷さんのお話は、海が身近だったころの生活が目に浮かぶようでした。三木谷さん、素敵なお話、ありがとうございました。