千葉みなと・蘇我エリアの暮らしには、やはり海が紐づいています。現在の海際と言えば、工場や飲食店、商業施設が立地していますよね。しかし昔は違います。地域の方に話を聞くと、今では想像できない暮らしが見えてきました。実際に聞いた言葉と写真で、ご紹介します。
「半農半漁の人が多かった」
「干潮時は、1,500m〜2,000mまで海岸線が引いていく」
「満潮時の海岸から200m地点と1,500mにぼんぐりという杭があり、寒川漁業組合の漁場とわかる印が設置されていた」
「誰でも自由に漁を行なっていい、解禁日が月に3回程度あった」
「解禁日にあさりを何升分か収穫して、お金持ちの家に売って回った」
「海岸から200m〜1,500mの間には、海苔の棚がたくさんあった」
「海岸沿いには天日干しをしている光景が広がっていた」
「海苔は9月に棚を準備して、11月から3月に収穫。5月には、アサリを収穫」
「のりの拾い屋もいた。長い棒ですくってとっていた」
「海に脚立を立ててキス釣りをしていた」
「はぜがよく釣れ、天ぷらにして食べていた」
「あさり、はまぐり、あおやぎ、すずき、いか、しゃこ、えび、かき、かれいが取れた」
「わたりがにが有名だった」
「かには茹でるが、味付けの仕方が地区ごとに違っていた」
「親とカーバイトランプで照らしてのカニ漁も行っていた」
「のりはお金になった。高校生で取りに行っても1日1万円になった」
「小さい頃、小遣い稼ぎに干潮時の海際で、蛤を取って売っていた」
「うら番と言われる漁業組合の見張りの人に見逃してもらうため、収穫の半分を渡していた」
「小さい頃はふんどしで、海で遊びに行っていた」