澤本 惠一郎さん

【ぽかぽかインタビュー】

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蘇我町で生まれ育ち、地元町内会で会長を務めていた澤本惠一郎さんに蘇我地域が今に至るまでのお話をお聞きしました。


□当時の蘇我はどんな町でしたか。
蘇我は旧道、昔は木更津街道って言ったんですけど、それ一本しかなかったんですよね。木更津街道にそって民家なんかがずっと続いてて、でんぷん工場なんかもあったんですよね。そこを挟んで東側が住宅超えてすぐ田んぼとか畑だったんですよ。で、西側のすぐ下が海だったんですね。ですから蘇我の住民は半農半漁って言われるんですけど。冬場は海苔を養殖してそれを取って売っていた。春から秋にかけては農業。米や畑をやっていたと。海の方に行くと夏場ずっと遠浅になってて、夏はそこで貝を取ったり、売って、とそういう生活でした。

□こどもの頃の生活をお聞かせください。
蘇我小学校に通ってたときは終戦ですからね。昭和20年頃に近くなってきたころに戦争が激しくなって、低学年は通学を止められたんですね。今はないんですけど、八幡公園のところに昔は八幡様って神社があったんですよ。こどもたちはそこでしばらくの間遊んだり勉強していたんですよ。空襲警報発令なんていうと蘇我の人はすぐ帰れって先生が。当時は各家庭に防空壕をつくってたんですよね。
昔ですからね、今みたいに本当に遊ぶってことはあまりないんですけど、我々が小さい頃は、海は埋め立ては通りはしてませんでしたので、よく遊びに行ったり、泳ぎにいったりしてました。砂浜があったんですけどね、千鳥がいっぱいいたんですよ。夏場に親鳥が卵を孵すんですね、それでいたずらっこの我々はね、雛を捕まえてきてうちで育ててたことがあるんですよ。すぐ下は海だったので、小さいハゼを取ってきて食べさせるんですよ。2匹くらいね、親にして飛ばせてやったことあるんですよ。あとは、戦時中に田んぼに落ちた爆弾がクレーターみたいになりますね、そこに水が溜まってザリガニがいっぱいいたんですよ。そこでザリガニ釣りやったことがあるんですよ。それから川を塞き止めてフナやうなぎとかを捕まえるんですよ。遊んだっていえばそういう遊びくらいですかね。

□今に至るまでにどんな変化がありましたか。
転機ってのが大きく分けると3つあったと思うんですよ。1つは戦争。日立航空機を米軍が狙ってきて、爆弾投下が外れて1丁目に落ちてきたんですよ。2つ目は東京電力の埋め立ての問題。蘇我に380くらいの漁業組合員がいたんですよ。それが、東電を誘致するということで漁業を放棄しなくちゃなんないですよね。そのために漁民が反対運動をすごく激しくやったんですけど、職業訓練所に入って職を身につけて、就職も斡旋しますとかって、色々説得されて、29年、やっと埋め立てを了解したんですね。あそこの場所の漁業を蘇我は全部放棄した。蘇我でも賛成反対でもめた時期があったんですね。今はないでしょうけど、そのしこりはなかなかね。うちの親父なんかも漁業やってましたから、組合員やってて、聞くと市役所に押し掛けてなんのかんのってやってましたよ。3つ目は蘇我土地区画整理。平成元年から現在に続いているんですよね。土地が整理されて新しい住民がきて、新旧住民の交わりができた。


戦争、埋め立て、区画整理、それぞれ大変な経験だと思いますが、それにより今の蘇我ができたわけですね。これからもどのように変化していくのかが楽しみです。澤本さん、素敵なお話、ありがとうございました。

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