うみまち埋立ての変遷

埋立ての変遷-01

地形から見る変遷

つての海岸線は現在の国道14・16号付近にあった。昭和30年代から始まった本格的な埋立により、市域面積の約8分の1もの大地が生まれ海は遠ざかった。しかし、かつての海岸沿いの旧道は形をそのまま残しており、近辺には現在も昔の遺構が残っている。【DROPS】地形から-01

【DROPS】地形から-02寒川は「千葉港」発祥の地である。
寒川の出洲埋立地から近代港湾としての発展が始まった。

寒川港 千葉港の発祥の地であり、江戸時代には佐倉藩の御用港として江戸との物資の流通の拠点として活用された。

江戸時代、千葉市内に関係のある港は検見川・登戸・寒川・曽我野・浜野であって、とりわけ寒川港は佐倉藩の御用港として重視された。延享3年(1746)2月の『寒川村指帳』によると、御蔵屋敷があって4棟か建ち並び、村には百姓船(五大力船)が40般もあり、その内訳は100俵積と90俵積であった。このほか押送船が20般・名主船1般があり、寒川御蔵より米・大豆等を江戸へ廻送したという。

都川と寒川港-01
出州港 1910年に11haの出洲埋立地を造成し、荷揚場を整備することによって港湾としての第一歩を踏み出した。

潮干狩りや海水浴でにぎわい、納涼台が並んでいた1930頃の出洲海岸は別荘地として売り出される人気の区域であった。
埋め立て前の-01

工業化する千葉港 戦後、千葉港を中心に急速な工業化が図られた。

戦後、千葉市は復興への足掛かりを海岸埋め立てによる工場誘致に求めた。特に1953年の川崎製鉄誘致と1954年の中央港の開港により消費都市から生産都市への転換を図った。

高栄丸-01
海の保養地としての出洲港 

海水浴場や潮干狩りに適し、納涼台や海の家も多く集まっていた出洲港は東京から1時間弱という利便性もあって行楽地として大変な賑わいをみせた。

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