大賀 信行さん

HP用インタビュー面2-01

出洲港で町内会長を努めた大賀信行さん。戦争をまたいだ生活の変化について御聞きしました。


□戦後、埋め立てられるまでの大賀さんの生活について教えてください。
 小学校1年生のときに福島県からこっちに引っ越してきた。ちょうど12歳のときに戦後になって、仕事を始めたんだよ。戦後は朝起きれば腹減らしているわけだ。食い物がなかったからね。おふくろと二人で、なんとか生活を支えなくちゃならないから、小学校6年から学校行ってないの。で、昭和33年に構内タクシー入ったんだから。その前は神社や海で遊んでいたけれど、戦後はもう友達と遊ぶ暇なかったよ。
 埋め立ては埋め立てられちゃった後に知ったから、あまりわからないんだよね。埋め立てが始まったのはね、昭和26年。川鉄が引っ越してきたんだよね。もとは日立航空があって、そのあとだからね。昭和17、18年頃は毎日飛行機のエンジンの修理点検してたかな。戦後で生活するのが精一杯だったから、埋め立ての変化に気づく余裕はなかったと思うよ。

□海が近かったと思いますが、やはり海で遊んだりはしましたか?
 当時はやっぱり遊んだね。うちの10メートルくらい下が海だから。ずっと海岸線が幕張、津田沼あたりまで繋がってたんだから。俺なんか家の近くに納涼台があったんだよね。納涼台はいくつかあって、昭和33年ぐらいまで残ってた。当時は納涼台に行くとタバコをくれたりしたんだよね。納涼台の方々の名前が稲荷神社の裏の碑に書いてあるんだよ。これは納涼台組合が作っていて、戦後28年に建てられたんだよね。納涼台組合っていうのはさ、8軒くらいあったかな。
 海では熊手のでっかいのでさ、エビとかイソギンチャクとかをとってね、食べるんだよ。遊び場としては鳥居のある側だね。海の深い方では遊べなかった。品川練炭っていうのがあってさ、毎日のようにだるま船が着いて、石炭を降ろしてたからね。あとはハマグリ取りに行ったり、バカガイ取りに行ったり。昔は釣りもできて、スミイカなんかが釣れたんだよ。他には、今は網でやってるけど当時はないから、海岸線に竹の海苔しびがずっと建っててさ、これがかくれんぼの遊び場になったりしたんだよ。

□神社に関しての思い出などはありますか?
 神社でも遊んだね。神社にえのきがあってさ、実がなるんだよ。それで鉄砲作って遊ぶ。それをとばすの。あとはめんこ。昔は「ぱっぱ」って言ったけどね。「おう、ぱっぱやんべや!」って。めんこは負けたら取られてた。昔のコマって言ったら丸いやつでさ。地面で回すやつ。ベイゴマなんかは戦後だから、やってないんだよ。
 その頃は鳥居が出洲の付け根の方にあって、御浜降りはこの鳥居から入ったの。戦後4、5年で埋め立てになって、御浜降りができなくなった。だから大きな船に神輿を載せて、東京湾の方を一周近く回って。それを毎年やってたんだよね。それからは5、6年やってたと思うな。それで、平成14年ごろかな。ポートパークで今の御浜降りが始まったんだよ。


戦後という大きな節目に少年時代を過ごされた大賀さん。埋め立て前の海や神社は思い出深い場所だったんですね。素敵なお話、ありがとうございました。


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